泉岳寺 赤穂四十七義士
泉岳寺「赤穂四十七義士(あこうしじゅうしちぎし)」の提灯です。
浪士ではなく義士と表現することから、
この提灯が「吉良邸討ち入り」を「義」とする視点から
つくられた提灯であることは伝わってくると思います。
ドラマの時代劇にもよく出てくるいわゆる「忠臣蔵」ですが、
この事件は、主君、浅野内匠頭の仇をとるとして
大石内蔵助率いる赤穂藩47人が
吉良上野介を討つという事件なわけです。
この事件を「義」による仇討と考える者と
そうではないと考える者がいるわけですが、
やはり、地元である赤穂市の人間からすれば
「義」であるという風に思う者も多く、
その視点からとらえれば、
赤穂四十七士は、「赤穂浪人」ではなく
「赤穂義士」という表現になるのだと思います。
ところがこの提灯は、
正面に「泉岳寺」と添え書きがある事から、
兵庫県赤穂市の提灯ではなく、
東京都の「泉岳寺」の提灯であることがわかります。
泉岳寺は、赤穂四十七義士の墓があります。
赤穂義士は吉良邸討ち入りの後1703年2月4日に切腹。
しかし、寺坂吉右衛門は途中で行方をくらませ、
関係者に討ち入りを報告して廻ったとも言われています。
寺坂は後に自首したのですが赦され、
麻布の曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。
現在も曹渓寺に眠っています。
また四十七士の一人、間新六の墓は、築地本願寺にあるのですが、
これは義士切腹の日老中秋元但馬守の家臣だった中堂又助が、
新六が切腹した毛利甲斐守邸から遺骸を引取り、
中堂家菩提寺の築地本願寺に葬ったことによります。
この後、間新六の供養簿は他の義士の墓と一緒に
泉岳寺に建立されました。
また寺坂の墓はそれから後の
1868年6月に供養のために建てられたものです。
また、いわゆる四十七士の他に、
本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い
討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります。
従って泉岳寺の墓碑は48あるのです。
ですが、もちろん萱野三平の名は
この提灯には記載されていません。
提灯には以下の47士の名が記されています。
向かって左側に
大石内蔵助 間 喜兵衛
大石 主税 間 十次郎
吉田忠左衛門 間 新六郎
吉田沢右衛門 村松喜兵衛
木村岡右衛門 村松三太夫
岡野金右衛門 横川 勘平
貝賀弥左衛門 三村次郎左衛門
大高 源五 神崎与五郎
向かって右側に
堀部弥兵衛 原惣右衛門
堀部安兵衛 片岡源五右衛門
間瀬久太夫 礒貝十郎左衛門
間瀬孫九郎 近松 勘六
小野寺十内 冨森助右衛門
小野寺幸右衛門 潮田又之丞
奥田孫太夫 早水藤左衛門
奥田貞右衛門 岡島八十右衛門
裏面に
赤垣 源蔵 武林 唯七
矢田五郎右衛門 倉橋 伝助
大石瀬左衛門 杉野十平次
中村 勘助 勝田新左衛門
菅谷半之丞 前原 伊助
不破数右衛門 矢頭右衛門七
千馬三郎兵衛 茅野 和助
寺坂吉右衛門