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加賀百万石前田藩「前田利家」

  • 前田利家(正面)
    前田利家

加賀百万石前田藩「前田利家」の片面提灯です。
向かって右側には兼六園と徽軫灯籠(ことじとうろう)が描かれています。
左側には金沢城天守が描かれています。

兼六園は前田利家の庭だったと思っている方も多いと言いますが、
兼六園名付けたのは松平定信です。
宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の六つを兼ねている、
という意味で兼六園と名付けられたそうです。

初代当主利家の時代に、兼六園は存在していません。
庭を最初に作ったのは5代藩主綱紀で
それを拡げたのが12代斉広、庭として整えたのが13代斉泰で、
兼六園は利家とはなんの関わりもないとのことです。

徽軫灯籠は、兼六園のシンボル的存在で2本脚の灯籠です。
水面を照らす雪見灯籠が変化したもので、
形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、
その名が付いたと言われています。

金沢城は、加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院であった尾山御坊が前身で、
信長が一揆を攻め落とした後、金沢城を築き佐久間盛政を置きました。
後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えたのです。

前田利家は小さい頃から織田家に仕え、織田信長の小姓をしていました。
ある日、利家が笄を失くすのですが、
それを拾阿弥が盗んだものとして拾阿弥を斬り捨ててしまったのです。
世に言う「笄(こうがい)斬り」です。
これに対し、信長は激怒し利家は織田家を追放されてしまいます。

その後「桶狭間の戦い」にひそかに参戦。
斉藤義龍との「森部の戦い」で足立六兵衛という猛将を倒します。
これにより戦功が認められ帰参を許されました。

したのは三年後のことだった。何度かの戦いで手柄を上げますが、なかなか信長には許されませんでした。
最終的に、美濃攻めで、という猛将を討ち取り、そこでやっと許されます。

1582年。遂に本能寺の変が勃発し、明智光秀により信長は討たれます。
織田家の後継者争いで羽柴秀吉と柴田勝家が対立します。
これが賤ヶ岳の戦いです。
利家は、柴田勝家の部下であったので、最初は柴田側につき、
途中で羽柴側に鞍替します。

この戦いで羽柴側が勝利し、前田家は領地を加増され、
能登国のみだった領地に加賀国の一部も領有することになりました。
このとき本城を現在の金沢城に移し、
加賀百万石とも言われる後々の繁栄がここから始まりました。

しかし翌年には羽柴秀吉と、織田信雄の間で争いが始まります。末森城の戦いです。
戦いが始まると、羽柴側である前田利家の領地に1万以上の兵力で佐々成政が攻めてきました。
利家は、深夜の海岸で敵の後方に回りこむ奇襲作戦が成功し、
佐々成政を撤退させることに成功します。
後に秀吉は羽柴から豊臣に改名し、織田勢力は豊臣家に吸収され天下統一します。

前田利家は豊臣家の五大老の一人に抜擢され、
豊臣家に厚く信頼されていました。
豊臣秀吉が没した翌年に、
後を追うように前田利家も病気により没し、その生涯を終えます。

提灯そのものはパット見は綺麗ですが、
小さな穴が開いている箇所があります。
箱はありません。